鹿児島県霧島市にある『熊襲の穴』は、ヤマトタケルノミコトと川上タケルが争ったとされる日本神話の舞台

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やあ、いちもくだよ。

最近、仕事で鹿児島県を訪れる機会が多いんだけど、時間が空いたときは史跡を訪れているんだ。

先日訪れたのは、鹿児島県霧島市にある『熊襲の穴』。

古事記や日本書紀、筑前国風土記に書き残された、クマソと呼ばれる人たちが住んでいたとされている場所だよ。

車でないと訪れることが難しい場所で、平日だったためか、ほとんど人はいなかったんだ。

ヤマトタケルノミコトと川上タケルが争ったとされる洞窟『熊襲の穴』は、怖いくらいに神秘的で静かな場所だったよ。

 

クマソとは

クマソとは、日本神話に登場する、九州南部に住みヤマト王権に抵抗したとされる人々のことなんだ。

古事記では熊曾と表記され、日本書紀では熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記されているよ。

勇猛果敢な人々で、「クマソ」のクマは勇ましさを意味していたと考えられているんだ。

現在の霧島市にある『熊襲の穴』は、クマソ族の川上タケルが住んでいたと伝えられる場所で、ここで女装したヤマトタケルノミコトに殺されたという伝承が残っているよ。

 

歩いて『熊襲の穴』へ向かう

熊襲の穴の周辺は、静かな温泉街。

妙見温泉の西側にある小高い場所に、「洞窟史跡 熊襲隼人 日本武尊」と書かれた看板があるよ。

坂を上ると、駐車スペースが10台分用意されているんだ。

ここからは歩いて登るよ。

「熊襲の穴」という看板に沿って歩いていくと、案内塔が見えてくるんだ。

荒々しい筆文字。

静かな山の中から、今にもクマソが飛び出してきそうな迫力だね。

案内棟の反対側には、芸術家・竹道久さんの作品『神々の想い』が立っているよ。

作者の意向で、作品の周囲は草払いなどせず、四季を通じて自然と調和した姿を保っているそうだよ。

ここからは、かなり急な山道。

滑りやすいから、スニーカーなど歩きやすい靴を履いていないときついね。

50メートルほど登ると見えてくるのが、注連柱(しめばしら)。

注連柱とは、2本の柱の間に注連縄を張ったもののことだよ。

注連柱は鳥居の原型とも言われていて、聖域と俗域を分け示すものとされているよ。

注連柱をくぐると、階段は更に急になっているんだ。

階段を登りきったところには、「熊襲隼人」という看板が掲げられているよ。

駐車場から約80メートルほどの距離だけど、息切れするほどの道のりだね。

 

いよいよ『熊襲の穴』へ

熊襲の穴の入り口には、立て看板が。

現在は100畳ほどの広さがあるそうだけど、更に奥には300畳ほどの広さがあったらしいんだ。

ここが熊襲穴の入り口。

腰をかがめてようやく入れるほどの高さしかないよ。

奥は真っ暗。

洞窟へ入る前に、入口にある手動の照明スイッチを押してから入ろう。

中にいるときに消されてしまったらと考えると、1人で入るのは躊躇してしまうね。

照明スイッチを押しても、外からは明かりがついているのかどうか確認できないんだ。

おそるおそる洞窟の中に足を踏み入れると、

狭い入口を抜けたところに、広い空間があるんだ。

天井は驚くほど高くて、案内板によると高さは6メートルあるそうだよ。

洞窟内の一面には、神秘的なアートが描かれているんだ。

この絵は、1990年に鹿児島県出身の芸術家・萩原貞行氏が、水性ペイントの原色を使って描いたものなんだ。

1人で眺めていると、恐ろしいくらいの絵の迫力に飲み込まれそうになるよ。

洞窟の中には、『熊襲こそ貴族』と書かれたボードがあるんだ。

 

熊襲こそ貴族

日本書記によると、今から1200余年前に、東側に面する穴とあるから現在の妙見温泉、妙見石原荘の西側300mの山側の、熊襲の穴を指すと思う。

昔は奥に千畳敷もあったという。

ここに居を構える熊襲族の大将、川上梟帥(川上武)(カワカミタケル)の石の寝台が完成し、その祝いに熊本、鹿児島、宮崎の南九州にまたがる55の部族の主将達が参集し酒盛りが施された。

一方、景行天皇(大小碓命)の息子である16才の小碓命が、熊襲が朝廷に貢ぎ物をしないと征伐の機をうかがって隼人迄遠征していた。

丁度集落の女達が晩酌をし、宴たけなわの折、小碓命は女装して宴にまぎれ込み、川上武の前に出た。

陶酔の武は、うつろな目で小碓命を見ると、「今まで見たこともなりきれいな女だ、お前とら二人で飲もう」と隣席との幕をしめ、二人っきりになった。

小碓命は懐中にしていた剣を、お酌をするふりをして、川上武の背中をブスリと刺した。

驚愕の武は

「そちは何者か」

「われこそは景行天皇の息子小碓命なるぞ、お前が朝貢しないので征伐に参った」

川上は

「あなたは私いより強い、小碓命では名が小さい、私の名を取って「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」として頂きたい」

小碓命は了承された。

その時分、泥酔した弟の、健(タケル)がフラフラ現れ出た。

小碓命はこれを真正面から胸をハッタと刺して即死させた。

この悲鳴に隣室の55の泥酔した主将達が幕を開き、異様さに仰天、血塗りの剣を持つ女装の少年唯一人を大勢の強力な大男達が一突きにしようと構えた。

その時、川上武は流血、瀕死の虫の息で制止し、

「こなたは、景行天皇の息子小碓命だ、朝貢しないと征伐に来られた、決して殺すでないぞ、私の名を献上して、ヤマトタケルノミコト、と命名して頂いた。朝廷まで無事届けてくれ、そして我々は今日限りで解散してくれ」

と命じた。

予て、統制力の厳格にして尊敬する首長、川上武の小声の厳命を何の抵抗もなく主命として悲哀の極限の中で守った。

日本武尊を無事朝廷に帰したので、その後蝦夷の征伐等次々に日本国の安泰のために進展されたのである。

おそらく現代ならばあの雰囲気では小碓命(日本武尊)は一突にされていたろう。

貢物をしないのは、血みどろで開墾した作物を仮に一万俵の米を、命令の半分五千俵をどうして朝廷まで運ぶかと、根の正直な武は躊躇していた。

外の諸候達は、無償の朝貢に対し、僅かな品物を持参して事足りていたと記されている。

1200年後の今日、すきがあれば領土や権利を略奪し、野蛮な何万人の人間が地で血を洗い、軍備に明け暮れ不平、不満、自分本位で理解なき現代人の世界と、川上武の当時取った処置を比較した場合心ある人々は、悟られると思う。

熊襲族が即座に解散した証拠として、歴史の本を探しても、その後熊襲に関する記事は見当たらない。

熊襲族には盗人がいなかったことも記されている。

このとこは如何に川上武の統制力が正しかったか、その充実せる実力発揮の結果で、警察を必要としないということでもあり、ととても尋常なことでできることではない。

熊襲の主将達がこのような精神で熊本、鹿児島、宮崎の集落に帰り、子孫に伝えた功績により、その血を継いだ南九州の人々は正直でよく働くと現代迄伝えられている所以であろう。

西鹿児島駅より就職列車として特別仕立ての卒業生を、親との訣別の涙を以って、東京大阪方面に送り、重宝がられた。

ついこの前の事実を考えても、更に南九州より優秀な警官や実業家の多いことなどもうなずけるところである。

このように我々は熊襲の実態を大に教訓とすることこそ必要ではあかろうか。

物で栄えて、心で亡びると言われる現代において、熊襲の物語を善意に解釈し、心の支えとして受け止めてこそ貴族ともいえる熊襲族の魂霊に対する供養の道でもあり、現代人として心の糧としたいものである。

妙見 石原荘 石原貫一郎

 

さいごに

『熊襲の穴』の中は、夏でもひんやりした空気に包まれていたよ。

涼しいだけでなく、神秘的な雰囲気に包まれた空間なんだ。

照明が無いと真っ暗で何も見えないんだけど、果たして古代クマソ族の人々はここでどういう暮らしを営んでいたんだろうね。

洞窟が崩れる以前は、400畳近い広さがあったと言われているよ。

洞窟内の「熊襲こそ貴族」に書かれている通り、勇猛かつ統制の取れた人々がこの洞窟を拠点に生活していたのかもしれないね。

ヤマト王権が遺した古事記や日本書紀だけではなく、クマソの視点で書かれた歴史書が残っていれば面白いのにな、なんて思ったんだ。

じゃ、またね。

 

熊襲の穴

住所 鹿児島県霧島市隼人町嘉例川
アクセス JR日豊本線隼人駅より車で約15分、九州自動車道溝部か後間空港インターより車で約20分
駐車場 10台(無料)

 

 

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